2018年4月22日日曜日

なんと言ったらいいのか


しばらく、しつこく、
雨つづきの、花冷えの毎日でした。
それが、急に、
夏の陽気になりました。

先日まで、
暖房をつけていたと思ったら、
電車の中では、冷房がはいりました。
ほんとうは、
暖房も、冷房もなく、
ただ窓をあけて、
あぁ、いい風、と、空気を味わいたいのです。

それが、
きょうは、昼でも雨戸を閉めて、
暑さが家の中に入らないようにしています。



ところで、
このごろ、ブログの筆が、なかなか進みませんでした。

なんと言ったらいいのか、
この近所のみなさんに、変化があって、
なんとなく、さびしいです。

体をわるくされた方、数人。
そのせいで、家を売られる方。
年をとられて、元気がない方。
なんだか、
このまわりには、あまりよくない「気」が、
あるみたいな気がします。
厄払いをしたくなります。

この私は、ものすごく元気なのです。
それどころか、
銀行を変える、とか
電子書籍を楽しむ、とか、
新しいことをエンジョイしているのです。

けれど、
一歩、家を出ると、
屋根のむこうの、
マルチンヌのことが、気になります。
窓をあければ、
フレデリックのことが、気になります。
同じ近所の空気をすっているのに、
見る世界は、きっとちがうのだろうと、
思ってしまいます。

ついこないだまで、
一緒に食事をしたり、
遊びに行ったりしてたのに。

アランは大丈夫か。
ミッシェルは、このごろ見ないけど。



電子書籍を手に入れてからは、
浅田次郎さんのエッセイなどを、
一気に、たくさん、読みました。

私の大好きな作家の一人です。

その中に、こんなことが書いてありました。

「大事な人が亡くなったという悲しみは、
いつまでたっても消えることはない」

というようなことです。
そして、

昔は、今よりも人がひんぱんに
亡くなっていたけれど、
それを、昔の人は、それをのりこえて、
じょうずにやっていた、というようなお話でした。

私は、
てっきり、
そういう悲しみは、
時間が解決してくれる、と思っていました。
そんなふうに、どこかできいたことがあります。

ですが、
いくら時はたてども、
ちっとも、その悲しみは、減らないのです。
まだ、努力が足りないのか、と
いくらがんばっても、
その悲しみは、いくら時がたっても減らなかったです。

ふつうに生活できるようになっても、
たまに、
ふと、その人のことを思う。
するとそこには、
いつまでたっても、
おんなじ悲しみが、あります。

ですから、
浅田さんの、
「悲しみは、消えることはない」というお話には、
ほんとうに、びっくりしました。
そして、
それをきいて、ああそういえば、そうだ、と
深く思いました。

そう言ってくれる方があって、よかった、と
思いました。
それっきり、
なんとなく、気もラクになりました。


そういえば、
おじいちゃん、おばあちゃんたちは、
人が亡くなっても、
あたふたもせずに、
その方を「ほとけさん」とよんで、
時には、ほとけさんに助けをもとめたりしてやってたな、と
思い出しました。

浅田さんのお話によれば、
それよりも、
自分もいつかあちらの世界に行くかわからないけれど、
生きてる、ということを、
忘れない、ということだ、と
そう書かれていたと思います。
(はっきりは、忘れました)

たしかに、たしかに。

私は、生きているのだから、
じゅうぶん、
ありがたく、それをいただこう、と
そんなふうに思いました。

ちょうど、
私は、仕事の山もこえたことだし、
のんびり、
ていねいに空気をあじわって、
生きていきたい、と思いました。



みなさん、
お元気で、おすごしください。
きょうも、読んでくださって、どうもありがとうございました。


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